毎年最勝寺ではご門徒さんの皆さんを中心に研修旅行を実施しています。今年は北陸、吉崎御坊の蓮如上人御影をお迎えしての御忌法要参拝を中心とした研修・懇親旅行を企画いたしました。
本願寺第8代蓮如上人は、比叡山延暦寺の衆徒に破却された大谷本願寺に代わり、越前吉崎に教化の拠点を定め、1471(文明3)年、坊舎を建立されました。
上人はこの地で書かれた多くの「御文」を中心に教化をされ、たちまちに吉崎は北陸方面の聞法の一大中心地となり発展しました。蓮如上人没後、北陸教化のご苦労とその徳を偲ぶ法要が吉崎で行われるようになりました。この吉崎の「御正忌法要」は、御本山本願寺より、御影道中により上人の御影を4月23日にお迎えしお勤めが始まります。
今回の旅行は、この御影のお着きに合わせて吉崎御坊を参拝いたします。
400年以上に渡って連綿と続けられているこの法要に一人でも多くの方々がご参拝のご縁を結ばれますようにご案内いたします。
【日程】
2013(平成25)年4月23日(火) ~ 4月24日(水)
【参加費】
お一人様 30,000円
【参加定員】
30名様
【行程】
日 | 時 | 行程 | 備考 |
---|---|---|---|
4/23(火) | 8:00 | 出発 | |
8:15 | 栗東IC | ||
10:20 | 鯖江IC | ||
10:30 | 誠照寺 着 | 誠照寺派 本山 | |
11:20 | 誠照寺 発 | ||
11:40 | 福井北IC | ||
12:00 | 丸岡町 着 | ご昼食 | |
13:00 | 丸岡町 発 | ||
13:30 | 金津IC | ||
13:50 | 嫁威旧地 着 | ||
14:00 | 嫁威旧地 発 | ||
14:20 | 吉崎別院 着 | 徒歩でお山(吉崎御坊跡)へ | |
15:30 | 吉崎別院 発 | ||
16:00 | 山代温泉 着 | 早めのご夕食。その後再び吉崎別院へ | |
18:40 | 吉崎別院 着 | 御下向お待ち受け | |
21:30 | 山代温泉「葉渡莉」 着 | 加賀市山代温泉温泉通り17 TEL0761-77-8200 | |
4/24(水) | 8:00 | 山代温泉 発 | |
9:00 | 鳥越一向一揆歴史館 着 | 一向一揆終焉の地 | |
10:00 | 鳥越一向一揆歴史館 発 | ||
11:20 | 名願寺 着 | 嫁威肉付きの面 | |
12:10 | 名願寺 発 | ||
12:20 | 加賀市内 | ご昼食 | |
13:20 | 加賀市 発 | ||
14:30 | 敦賀IC | ||
14:50 | 日本海おさかな街 着 | お買い物 | |
15:30 | 日本海おさかな街 発 | ||
17:20 | 栗東IC | ||
17:40 | 帰着 |
【旅の見どころ】
蓮如上人御影道中
江戸時代はじめ、本願寺が東西にわかれ、お東のご門徒は吉崎御坊の旧地「御山」で承認の御影をかけ二十五日講を営むようになりました。
その後、御山の占有をめぐりお西のご門徒と対立が怒りました。その時、御影を御本山に預けることになりなりました。
以来毎年、春の「蓮如上人遠忌」には別院から本山へ御影をお迎えに行くようになり、本山から吉崎をご下向、吉崎から本山をご上洛という全行程徒歩の御影道中がこの時から始まりました。
蓮如上人が歩いたと伝えられる吉崎別院までの240キロを随行教導、責任者である宰領、供奉人数人と、縁を歓ぶ人たちが、御輿を1週間かけて歩いて、門信徒の待ち受ける吉崎の地へ運ぶ旅が今日まで連綿として続いています。
ちなみにご下向は琵琶湖の東回り、ご上洛は西回りとなっています。
(参考リンク)
ウィキペディア「吉崎御坊」
吉崎御坊願慶寺「蓮如忌」
嫁威谷
嫁威谷(よめおどしだに)は、越前国吉崎御坊(現在の福井県あわら市吉崎)近くの嫁威谷(同あわら市嫁威)に伝わる伝説である。
文明3年、蓮如が北国すじの勧化のために越前国吉崎道場において、朝夕、化導したとき、加賀、能登、越中、越後、信濃、出羽、奥羽の信者が説教を聴聞するために群衆した。
そのなかで、越前国二袴の百姓与惣治夫婦はひとえに蓮如上人の高徳をしたい、教化によって即得往生の果を得ようとひまを盗んで吉崎に通った。 これをみて、与惣治の母は、無信心から、明け暮れの後世願いにかよいつめることは稼業の妨げであるとして、慳貪、邪見の心から、吉崎通いをやめさせようと考えた。
文明4年2月20日の夜、与惣治は他出で、嫁ひとりが参聴した帰途、今日こそ時節到来と、母は、ひそかに氏神奉納の面を盗みだし、白い帷子(かたびら)をまとい、鬼神をまねて威(おど)そうと、竹薮に身を潜ませて待つことも知らず、嫁は称名しながら来かかったところに、鬼形の母は現れて呼び止め、「汝、母の意に逆らひ、吉崎参りする不孝の罪、遁るべからず、われは白山権現の使であるが、今日より母の言葉に従ひ、改心せざればゆるさじ」と威し、母は薮の中から出ようとしたとき、荊に引かれて引けども離れず、嫁はまた顧みもせずに逃げ帰った。
母は怒り、日頃たくらんだことの失敗を残念がりつつ、かぶった面をとろうとしたが、顔にひきつき、どうしてもとれず、嫁は我が家に逃げ帰り、帰宅した夫に次第を語り、また母の不在を心配して訪ねに出て鬼形の母にあった。
母は我が子に呼びかけ、たくらんだ恥を泣き叫んだ。与惣治は懺悔はその罪を滅すと聞いている。
このうえは吉崎御坊に上人をたずね、御化導にあいなされとすすめて、御坊を訪ね、上人の前にひざまづいて教化をうけたところ、母は先非を悔いて懺悔した。 すると肉まで付着したとおもわれた鬼女の面はたちまち落ち離れたという。
そのときの面というものが西念寺に伝わる。
—ウィキペディアより引用—
(参考リンク)
ウィキペディア「嫁威谷」
福娘童話集「吉崎の嫁おどし」