この度、最勝寺境内に、第10代住職 華生庵繹願了(享和元年~明治七年)の墓銘碑を建立し、4月27日にその奉告法要を厳修しました。
最勝寺第10代の華生庵繹願了の生前の功績については、栗太郡誌をはじめ多くの書物により紹介されております。算術に優れた「そろばん老僧」という晩年のイメージが強いようですが、特筆すべきは、普門律師に梵暦を学び暦学を究めたこと、幕末期、沈滞した本願寺の宗風改革を謀り忌諱にふれ、幽因されたこと、医学にも秀でて近郷も人々を救済するとともに、余技として華道を嗜み、池坊の高弟として孝明天皇崩の際の献花を仰せつかったことなど、その遺徳は多岐にわたっています。
没後、同郷の碩学北川静理先生は、法嗣冷然(十三代)より、その遺徳を不朽に伝えるため建碑の思いを聞き、またその無偏な徳にいたく心を動かし、その遺徳を碑銘文に書き上げていただきました。前住職大願(十七代)が改めてこれを永く後昆に伝えようと、師の百回忌に駒井元悦師に書を依頼し、その碑銘文をもって碑を建立しょうとしましたが、思いかなわず今日に至りました。
このたび釋大願の23回忌法要を勤めるにあたって、ようやく140年来の念願が実り、墓銘碑建立の運びとなりました。奉告法要当日は晴天に恵まれ、80名を超す多くのご門徒、縁者の方にご参拝いただきました。改めてその遺徳をしのぶ機縁となりました。
墓銘碑文を以下に掲載します。是非お読みください。
また、墓銘碑建立を記念して、願了の遺徳を紹介した書物の記事を冊子にまとめました。数量に限りがありますが、ご希望の方はお申し出ください。
墓銘碑文夫れ志ある者は功必ず成る。名必ず揚る。然るに時と勢に因って名揚らざる者有り。其の故は何ぞや。古より志士仁国を経し世を救わんと欲すれば、則ち艱難を避けず苦労を顧みず、確固堅忍、精を専らにし力を尽し而して左支右吾、或は人の掣肘する所と為り、功名終に成らざる者多し。是れ謂わゆる時不可なるのみ、勢不可なるのみ。余繹願了師の事蹟を観るにも亦之に類する者有り。師、平居学を嗜み、初めて高倉学寮に入るや専ら宗学を修む。又梵暦を普門律師の問う。長ずるに及んで仏教を興隆せんとするの志有り。蓋し梵暦なる者は仏教の寝淵源なり。適々石見の僧淨観なる者、将に宗風を改革せんとす。師を延ばし援を無し与に倶に事を謀る。遂に忌諱に触れ、淨観は罪を獲たり。師も又し連坐し、譴累を蒙り幽因年を経る。既にして䨄赦に遭い郷に帰る。益々暦法を研磨し精を極め微を析つ。特に算数に於ては深く奥妙を造す。人之に及ぶ者なし。故を以て近邑の年少の其の指教を受くる者多し。又兼ねて医術を修め、且つ、挿花を能くす。師の名は隨法、別に華生庵道翁坊と号す。願了は其の法諡なり。父は願誠、母は川那邉氏、先世を継ぎ栗太郡河原村最勝寺住職と為る。寮司学階に登り、後に教導職十三試補と為る。享和元年正月を以て生れ、明治七年六月を以て遷化す。亨年七十有四なり。嗚呼師をして初志を遂げしむるや仏教に功あり。一世に名有り、未だ測知す可らざるなり。然るに一旦さてつすれば功は其の力及ばず、名は其の人を顕さず。今、法嗣冷然師碑を建て以て不朽に伝えんと欲し、来たり文を乞う。乃儀ち其の履歴を叙べ、掲ぐるに銘を以て曰く、「法は仏教に本づき、術は天文を究む 真を探り理を求め、銖分算測す
其の人見えず、水月光明 その名は世に存し、松風跡清し」撰 北川 静里